やかんです。
大学1年、2年の時にちょろちょろ解析学を勉強しました。解析学、というよりは微分積分学ですね。一応、一通り勉強したはずなんですがなんだか苦手意識がある、という現状です。
「覚えていれば計算できるけど、理解した感がない」といったところ
これを克服したいということで、学生最後の夏休みに解析学のおさらい、腹落ちした理解を目指そう、という試みです。
解析学
今、自分が知ったつもりになっている「数」について、何も知らないふりをして論理的に再構成する試み。
その際、前提として「これはすでに知ってることとして議論を進めるよ」というものが設定されており、それが
- 「数」というものに対して演算が定義されている(加減乗除)
- 「数」というものに対して不等式があることを認める(大小関係がある)
の2点。この2つについては、個別の議論なしに前提として用いて良いと。
逆に言えば、この2つ以外の事項については定義あるいは導出したものしか議論(理解)において用いてはならない。
数列に関するコーシーの収束性の定義
モチベとしては、カントールの公理を認めたい、というモチベ。上で述べた通り、
- 「数」というものに対して演算が定義されている(加減乗除)
- 「数」というものに対して不等式があることを認める(大小関係がある)
以外何も前提としてはならない、という中で、「一般性質」みたいなものをまず認めよう、という試み。その一般性質というのが、
- アルキメデスの公理
- カントールの公理
で、それぞれの公理の詳細は端折るが、後者について、「カントールの公理を公理として認めて、今後の議論で使いたいのだが、そのためにはカントールの公理の中ででてくる直感的な『収束性』という概念を数学的に定義しておく必要がある」という話。
で、こうした文脈において数列に関するコーシーの収束性の定義というものが登場する。
やっぱカントールの公理ちょっと述べる
これは、パッと聞いても「ん?」となる。直感的と言えば直感的だけど、「本当にこの公理が述べていることって、公理として認めていいほどに当たり前なのか、、、?」と疑問が生じる。
でも、それをグッと堪えて「公理である!」としたい、というのが教科書的な主張なのではないだろうか。例えばカントールの公理においては「一意性」も主張されているが、「これは、一意なんです!そういうことだとみんなで信じるのです!」みたいなイメージじゃないだろうか、公理として認めるっていうのは。
定理について
自分が武器として所持できるのは、
- 前提としたもの
- 公理として認めるもの
- 定義したもの
- 上3つを用いて当然に導かれるもの(←これを定理と呼ぶ)
の4つ。逆に言えば、この4つしか理解or議論において使ってはいけない、ということだ。
例えば収束する数列について、極限値の一意性が保障され、これは定理として導くことができる。すなわち、数列に関するコーシーの収束性の定義と、前提した数における演算、大小関係(不等式)の前提を用いることで、論理的にこれらを並べるだけで極限値の一意性が導ける、ということ。
だから、定理の証明というのは、「最初の方」に登場するほど、証明のために使用していい事柄が少ないためシンプルになると思われる。この時、「シンプル」というのは容易さを表しているわけではない。
まじでこの辺は法律そっくり。
見方を変えれば、定理の証明というのは定義などの「武器」に対する理解度の目安、あるいは習熟のための練習問題と捉えられる。あるいは、定理の証明が完了したときに、何を使って証明したのかということの振り返り。
定理の証明について
定理の証明は、証明に際して使えるものが限られているから簡単なように思えるが、全くそんなことない。これは「使っていいものが有限」ということで、難しいものについては「これしか使っちゃダメなのに、どうやってこの定理を証明するのさ」となる。
ここで、数学的に違反のない範囲で工夫することが大事になってくる。数式をいじって、手持ちの武器が適用可能な形に持っていってあげたり。これがむずいんだなー、慣れなのかな?
少なくとも、「直接的に、手持ちの武器を適用するのは不可能だ」と理解することは可能だ。そこからが勝負って感じ?ただ、これを頑張ろうとすると何を証明したいのかわからなくなってくるんだよな。。
また、証明した定理を、他の定理の証明に利用することは可能。「利用する」というよりかは、「その定理の証明部分を省略してもいい」という方が適切だろうな。
極限周りの証明について
ここは、収束性の定義と極限値の一意性をごにょごぎょ使う系が多いよな。
改めて定理の証明について
定理を証明するためには、「手持ちの武器」についての習熟度が試されるわけか。
有界という概念の導入
こういう、新しい概念の導入も「定義」として考えていいよね。もっと議論を進めたい場合に、歴代の数学者様が該当する概念に「定義」というものを与えてくださったわけで。
この辺も、例えば2018民法改正で「特定財産承継遺言」という言葉が導入されたのなどに似ている。
そのおかげで、もっといろんなものについて議論ができるようになって嬉しいわけだ。
ワイヤシュトラースの定理
こういう、アルゴリズム的な証明はたまにお見かけするけど、本当天才としか思えない。。
多分いろんな文脈で登場する定理なんだと思う。けど、今の文脈は数列と、その極限だから、数列っぽい議論ができるように知恵を絞る必要があるわけか。
帰納的な証明はいつ見ても天才だよなあ。思いついたときすごい嬉しかっただろうな。。
えぐいよな。最終的に公理に持ち込むのは、「公理を使おう!」って思ったのか、色々いじってたら公理の状況を満たしていることに気づいたのかどっちなんだろうか。
この定理(あるいはこれを定理たらしめる天才的な証明)のおかげで、「有界」という概念を数列について導入すると、もれなく上限・下限という概念がありありと現れる、ということがわかる、あるいは証明される。
以降、この定理の存在に留意すれば、有界の概念が導入された数列の議論において上限・下限という考え方を使うことができる。
いや、これすげえありがたいよな。部分集合について有界であるということがわかれば、この定理が定理であるおかげで、同時に上限についても扱うことができるわけか。ありがてえ。。
三角不等式について
これはやたら出てくるなあ、という印象だけど、収束の定義と親和性がすごいんだな。
三度定理の証明について
定理は、定義とかから証明されるもの。このとき、いわゆる背理法というのはまじで考えた人天才だと思う。証明のハードルがこれのおかげで格段に下がっているはず。
天才だよー、ありがたすぎる。
今日はこの辺にしよう。
てなわけで今日はこの辺にします。
以上、こちらのメモでした。最後までお読みいただき、ありがとうございます。